98件のひとこと日記があります。
2018/01/08 11:29
キャッチボール
少年たちが路上でキャッチボールをしていた。
その光景に出くわした瞬間とても懐かしい気持ちになった。それと同時に、モヤっとした奇妙な感覚もあった。
そういえば、休日の昼間に野球して遊ぶ少年少女なんて見かけなくなったな。
ふとそう思った。
僕が小学生の頃は放課後の校庭で野球している光景なんて珍しくもない普通なものだった。僕の両親が小さかった頃に比べれば、数は少なくなってたのだろうけど、十数人が集まってチームを組んで試合することも頻繁にあった。
リトルリーグのチームに人が集まっているのかもしれないけれど、経済的な理由か何かでそこにいられない少年少女であっても、校庭で野球して遊ぶことは出来る。そんな光景があってもおかしくないと思うのだ。
が、休日の校庭はとても静かだ。もうずっと、いつからなのか分からないほど、そこで無邪気に遊ぶ小学生を見ていない気がする。だからなのか、突如飛び込んできたその光景から、記憶の彼方から呼び起こされたものがあったのかもしれない。
ちょっと、寂しい気持ちと気持ち悪い感覚がある。しかし、そんな気持ちが湧き上がったところで、どうしようもない。忘れるしかないのだろうか?
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ペペロンジュースさん
アレキさんのこと、私は「まごころの人」と偉そうにもそのように称したことがあったような記憶があるのですが、「まごころ」なんて言葉、ずっと使ってないことにある日気づいたのです。言葉にするという行為は、“そこ”に意識が届いているから発せられる本質の具現ですから、「まごころ」という言葉を使えていなかった私は、それを長いこと忘れていたんだなって。
健気にキャッチボールを楽しむ子供たちは屈託ない笑顔を浮かべていました。彼らの間には一つのボールが行き交ってましたが、そこからお互いに何を感じ取っていたのかな? -
ペペロンジュースさん
人を惹きつけ、変えていくのは理屈や知識じゃない。それは、自己対話の中で得られる至福であって、他人をどうこうさせるものではない。もし、それらが他人を変えたのならそれは洗脳なのかもしれない。ほんとうの意味での理屈や知識は自身の中で芽生えるものなんだ、と。
そもそも、私の信念や誇りの根拠となる知識や祝福って、色んな人に支えられて得られたものであるという、当たり前のことさえも忘れていたんです。 -
ペペロンジュースさん
ほんと私自身、自分が平凡な人であることを誰よりも知っています。それ故に、「こんな自分でも、自分に対して自信や信念、誇りを持てたんだ。だから君だって!」と安易に考えてしまった。言葉にすれば、たったそれだけの甲斐無い理屈のために、絶対に切ってはいけない繋がりさえ、あともう少しで失うところでした。「あなたのこと知りたいのに、理解できないの」と大泣きさせてしまって。その時、はっとしたんです。
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ペペロンジュースさん
アレキさん
何度も読ませていただきました。
何も意見することなんてありません。綴って下さったことに対し、今は全くその通りだとしか言えないです。
ここ暫く、大切なことを忘れていたような気がします。何か使命感のようなものに取り憑かれて、長いこと自由が効かない時間を過ごしてました。けど、それもただ「あなたの笑顔を見たい」とそれ一心の事だったのですが、大きな見落としがあったみたいです。 -
ペペロンジュースさん
オペラさん
確かに、今を生きる少年少女の選択肢は昔よりも増えているのかもしれませんが、現代は「格差」が指摘されてる社会でもあります。
就職活動の時に、とある大手化学会社の生産現場の統括されているリーダーの方の話を聞いたのですが、自分たちでルールを作って外で遊ぶ子供が減ったためか、今の若い力は発想力が足らない、と。研究室のボスの話では、自然の中で遊んで、怪我をしたりして危険を経験していない子供が多いからか、実験装置の組み立てに対して無神経な生徒が増えている、とか。
なんにせよ、子供たちがすくすくと育ちやすい社会にしたいですね。 -
アレキさん
相手の顔が見えないところで、高度なITキャッチボールに興じる子が増えた。
そんなのは、心の基本ができてからでいいと思う。
体に、健全な心が宿ってからでいいと思う。
行間には心が宿るけど、でもそれもこれも、やっぱりいつまでも架空では。キャッチボールなしでは(理性だけでは)うけとめきれないよね。
実際の重さを知って、母のあたたかさを知って、友情を知って…
そういう元手がそれぞれの心の器になくてはね…
笑顔は大切だ
それを生むのは素朴な優しい気持ちだと思うんだ。
カタルシスを求めない闘争は、尊い反面、表現すれば、聞く相手の生き様を傷つける刃にもなる。人は誰も繊細だ
それも忘れないで、うまくやってほしい。
どうやればいいのか…
遠い先、結論も答えも違ってていい。
それでも、いい門出になることを祈る気持ちだけは変わらないこと、
このボールに込めて伝えます。 -
アレキさん
ユニフォームでする、エリート少年たちの野球はまだ印象ほど失われてはないと思う。高校野球のレベルも高いままだ。
でも野球のうまい彼らよりも「私たちみんな」にこそ大事な、キャッチボールの習慣は年々失われている。
それが伝えるものが、物悲しいんだと思う。
なにもプロ野球選手になる必要なんてない。
子供達がグローブを外して失うもの、
校庭の景色から直感できるセンスは悪くないと思うな。
結論が足りなくても、でも、気持ちを素直に伝えることができたら…案外と充分なんじゃないかな。
だってそれがキャッチボールだったろ。
言葉にできないことも、足りないものも、受けとめる。
想いが詰まったボールは、受けていてズシリとくるから、不出来でも心地はわるくないものさ。 -
アレキさん
キャッチボールはある意味、野球よりも特別なものだ。
投げる。捕る。
捕ってまた投げる。
それだけ。
けれど相手の気持ちがこれほど直感的にずっしり伝わる遊びって他にあるだろうかな。球技は大抵がワイワイと楽しいけど、だいたいが取り合いであるから。
較べるとキャッチボールは静だ。相手のことをよくみて、思いやれなければならない。自分のフォームを考え、自分をみつめる。自分を理解できてないといいボールはいかない。心の渡しあいなんだと思う。
ボールの程よい軽さ…重さが心地よいのか、
少し練習すれば誰でも扱えるようになるグローブがよいのか、
後逸しても追いかければよくて、
思うところに行かず、逸れてもごめんと謝ればそれも相手に響く。
それだけでいい幸せがある。
素直になれる。
ボールに熱がのる。想いが伝わる。 -
「何をやってるか?」はともかく、今の子供たちって習い事の選択肢がものすごく多いですからねぇ。
僕らが子供の頃、僕らの地域には少年野球チームすらありませんでした。
だからだいたい習字・珠算・ピアノ・剣道・水泳スクールくらいしか選択肢がなかった。何もやってない子も珍しくなく、そういう子たちが校庭で遊んでた。釣りや虫取りに夢中になる子もいました。
今は、親の側も週休2日制が当たり前になって余暇が増えて、サッカーも野球もラグビーも少年団があって車で送り迎えしてもらえます。フィギュアスケートやゴルフなんかもありますね。形態が変わっただけで、子供たちが遊んでることに変わりはないんじゃないでしょうかね?
「副作用」もあります。
ジュニア層の指導がいきわたったせいでほとんどのスポーツは競技水準が上がったけど、個性派は少なくなりましたね。正月に大学ラグビーを見ててふとそんなことを思いました。金太郎飴みた -
年金暮らしさんがいいね!と言っています。