19件のひとこと日記があります。
2011/11/24 23:15
【回顧録】1984年ジャパンカップ?Vol2
カツラギエースが積極果敢に先頭に立って、レースがスタート。
後続を10m以上引き離す大逃げを打ちますが、他の騎手や競馬場に居た観衆、
そして馬券を買っている多くの人は
「どうせカツラギエースの逃げは、いつかバテて終わる。
日本の三冠馬2頭が、どこから仕掛けるのだろうか?」
ということに重点を置いて考えていたはずです。
このジャパンカップでのカツラギエースは、まるで
【深まりゆく秋の景色を楽しむような】
逃げでした。騎手と馬を結ぶ手綱はいつもより30cm長く持たれており
普段と違うその手綱の緩さのせいで、カツラギエースの走りには
多くの逃げ馬に見られる悲壮感や“走らされている”という感じは
微塵も感じられないものでした。
だからでしょうか、直線に向いてもカツラギエースは粘り腰を見せます。
バテそうでバテない。交わされそうで交わされない。
結局カツラギエースはどの馬にも先頭を譲ることなく
東京競馬場の2400mを見事に逃げ切ったのです。
それはつまり、ジャパンカップ史上初めて、日本の馬がこの国際競走を
制したことを意味するのだけれど……。
日本馬が勝ったことは喜ばしいことなのに、その立役者は多くの人が
スポイルしていたカツラギエースという馬だったのです。
だからでしょうか、レース直後の東京競馬場は静寂が訪れたといいます。
それでも、しばらくするとカツラギエースを称える大きな拍手が
競馬場を包み込んで、この『番狂わせ』は幕を閉じたのでした。
この年、街中では『わらべ』が歌う『もしも明日が…』が頻繁に流れていました。
この曲を歌う愛くるしい女の子3人組は、それぞれ
「のぞみ・かなえ・たまえ」
という名前。まさに日本の競馬関係者の胸のうちを現わすような
3人組だったのは単なる偶然だったのでしょうか……。
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このジャパンカップの後、カツラギエースが出走したのは暮れの有馬記念。
再度、2頭の三冠馬と対戦することになったカツラギエースは、ルドルフの2着に。
もう誰も、この結果でも驚きませんでした。
多くの人にカツラギエースの実力は認められて引退、競馬場を後にしました。
カツラギエースは2000年に心不全のため、この世を去ります。
日高郡新ひだか町にある冬沢牧場で眠るカツラギエースは、今年も天国から
ジャパンカップで日本馬が活躍することを願ってくれていると思います。
競馬を愛する日本人は、初めてジャパンカップを勝ったこの馬を
せめてこの時期だけでも良いから、リスペクトして欲しいと願って止みません。
なぜなら、カツラギエースが勝利してから何年経とうとも
【多くの日本人の前で、外国馬相手にG1を勝利する姿】
を初めて見せてくれたこの馬の偉大さは、決して色褪せること無いのだから。