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2019/07/23 22:44
『浜千鳥』歌碑
千葉県南房総市の『浜千鳥』歌碑
「建碑の言葉」歌碑(裏)
土用波が荒れる頃
磯辺の千鳥が月に消えて
海がめが卵を生みにくる
此の土地は
鳴秋が人情の素朴を愛した
たった一人の娘 昌子さんが
若くして和田浦で逝った
それ以来 彼の切々たる
傷心から「浜ちどり」や
「夜の貝」等の歌詩が
此の海岸の街で生れた
父と娘だけのつながりの
世界に 此の碑を建立して
霊を慰めたい。
終わりに多くの人々の心からの
喜捨を感謝 合掌
昭和四十年十二月 安田誌」
歌碑の説明
「浜千鳥の歌碑は、作詞者鹿島鳴秋が南房総市和田町を愛し度々療養中の愛娘をつれ訪れていました。後に、家族ともども和田町に移り住みました。療養のかいなく愛娘は亡くなりました。愛娘を偲んで童謡「浜ちどり」の歌を作られたとされています。弘田龍太郎の作曲のもと大正9年(1920年)の雑誌少女号の正月号に発表され世間に流布されました。昭和41年3月(1966年)に花園海岸の松林の中に高さ1mの黒御影石の碑石に浜ちどりの歌詞が刻まれ在りし日をしのび建てられました。」
同じ文面が、千葉県観光物産協会HPにも記載されています。(問合せ先 南房総市教育委員会とあります)
詞が作られた時期(1919年)と長女が亡くなった時期(1931年)が合いませんので、この記載は間違いと考えられます。
1931年に亡くなったというのは、別府明雄著『あしたに 童謡詩人 清水かつら』、鮎川哲也著『唱歌のふるさと旅愁』はじめ複数の資料に書かれています。
しかしながら、
「建碑の言葉」を書いた安田耕一というひとの家は、鹿島鳴秋一家が転居前に和田町を訪れていた際の滞在先。転居してからは近所の人。そういう人がこういう「建碑の言葉」を書いたら、これは、町としてはしょうがないでしょうね。
しかも、鹿島鳴秋が「体の弱かった一人娘を亡くした悲しみをテーマに作詞した」と自分で言っていた、というのです。安田氏はそれを聞いたのかもしれません。
『浜千鳥』が広く知られるようになったのは、レコード化された1932年(昭和7年)以降と言われています。
もし、安田氏が1932年以降に、この曲の存在を知ったのだとしたら、作詞者本人が「そうだ」と言っているのを聞けば、「そうなんだ」と思ってしまうのは当然でしょう。
鹿島鳴秋が、何故そのような発言をしていたかについては、まったくわかりません。
以前作った詩に当てはまるようなことが、あとになって起こる。
ということもあってもおかしくはないかもしれません。